Da vicino nessuno e’ normale(近づいてみれば誰ひとりまともな人はいない)

BGM zine issue6を新入荷しました。

BGM zine issue6 / Kotono

やっぱり、フェミニズムはフェミニズムでも、生活やケア、無力感に向き合ってるものに共感を覚えます。

もちろんアジテーションや理論に重きを置いたものも大事かとは思うけど、大人になると運動らしい運動を全力でやれることはなくて、どうしても自分の生活や身体の限界を感じながらの活動になる。自分の場合はうつ病になったのがとても大きくて、それ以降、過度に運動への連帯や反体制を煽るものにはついていけなくなってしまった。いくつかの団体からはマッチョイズムを感じる。権力はいつだって暴力的だけど、それに対抗できる反体制も十分暴力的になり得る。現に左翼コミュニティやサード・プレース内でのハラスメントの噂は絶えることはない

“Da vicino nessuno e’ normale(近づいてみれば誰ひとりまともな人はいない)”

zineの最初のページに書かれている言葉。東京で行われたフェミニズムの展示「プンクトゥム 乱反射のフェミニズム」という展示にあったものだそうだ。まさしくその通りだと思うけれど、現実の世界は言うまでもなく「まとも」と「まともじゃないもの」をふるいにかける視線に満ち溢れている。

自分は写真会社でカメラマンとして働いている。カメラマンとなるとやはり撮影が仕事だと思われるのが、実際それは週末だけであり、平日はその月に行われる撮影内容についての依頼主とやり取りをして、その内容を撮影をお願いするフリーランスのカメラマンへ連絡したりしてる。いわゆる事務仕事だ。

どの撮影をどのフリーランスにお願いするかは、別の社員が担当している。各フリーランスのスケジュールや特徴はメモに残されていて、歴代の担当社員に引き継がれていくのだけど、この間たまたまそのメモを覗く機会があった。「外撮影が得意」とか「朝撮影NG」とか他愛のないものの中に、それはあった。「撮影中に倒れた前科あり」。

本当に嫌な気持ちになった。前科って何だよ。撮影中に倒れたら犯罪者なのか。

他にも、新しく契約したフリーランスの人が、以前に撮影を飛んだ(=無断キャンセルした)ことが別のカメラマンから会社に話が回ったことがあった。その新しい人とは一緒に撮影に入ったことがあって、撮影も上手いし対応もしっかりした人だったのだけど、その一件知れ渡って以来、会社からの依頼はほとんどなくなった(この時、こうした噂が出回るこの業界の狭さと陰湿さを痛感したし、永山則夫の「本籍地」の話を思い出した)。

一般的に知られてないかもしれないけど、撮影って本当に過酷な仕事だ。例えば挙式撮影だったら基本の撮影時間は6時間にも及ぶ。キッズフォトならば、言うことを聞かない子どもの撮影になると、文字通り本当の地獄だ。以前フォトスタジオで労働していた経験があるが、過酷すぎて社員が体調を崩したり新人が来なくなったりするのは当たり前だった。自分が退職を決意したのも、10円禿げや蕁麻疹が身体に現れるようになってきたからだ。

だから、「依頼した撮影を問題なくこなせて当たり前」だなんて考えてほしくない。誰だってその日の体調や気分の良し悪しがあって当然のはずだ(今この瞬間、あなたが「仕事にそんな感情持ち込むな」と考えたなら、このページを閉じて二度と私に関わらないほうがいい。それがお互いのためだ)。「依頼した撮影を問題なくこなせて当たり前」が撮影業界の「まとも」なのなら、まともな人間なんて一人としていない。

そもそも、撮影中にトラブルが起きたときに、予備の人員を配置しておくとかバックアップの体制を整える余裕がないのは、企業や資本主義の問題だ。それを棚に上げて労働者に責任を転嫁するのはお門違いだ。

ここでもう一度前述の言葉を記したい。”Da vicino nessuno e’ normale(近づいてみれば誰ひとりまともな人はいない)”。本来「まとも」か「まともじゃないか」判別できるはずのない世界の中で、そのような判別を迫られるのなら、考え直さなきゃいけないのは私たちの「距離感」じゃないのか。

歩み寄れるはずの私たちの関係を遠ざけ、互いをふるいにかけ合わせるこの社会のシステムこそが批判されて然るべき対象だ。